更新日:2015年12月14日 三方原墓園駐車場敷地内(北区根洗町) 三方ヶ原の戦い 1572(元亀3)年、上洛(地方から京に上ること)を目指し、武田信玄が遠江国に進軍。それを知った徳川家康は、浜松城を出発・追撃し、三方ヶ原の地で戦いとなりました。しかし、兵の数でも軍術でも劣る徳川軍は総崩れとなり、家康も命からがら浜松城へ逃げ帰りました。 その夜、犀ヶ崖付近で野営していた武田軍に奇襲を仕掛け、反撃に出た家康ですが、最終的におよそ1, 000人もの戦死者を出す徳川軍の大敗北に終わりました。 家康はこの敗戦を教訓とし、いかにして勝つか、信玄の戦法を積極的に学び、その後の数々の戦いに生かしていったといわれています。 ※武田信玄の遠江侵攻の目的は、諸説あります。 若き日の徳川家康が、武田信玄に大敗北を喫した「三方ヶ原の戦い」。三方原台地の一角に、この辺りが戦いの舞台となったことを示す碑が建てられています。 戦いがあった場所ついては、三方原台地であるということ以外、詳しいことはわかっていないのじゃが、1984(昭和59)年、その歴史を長く伝えようと「三方原歴史文化保存会有志」の手により、三方原の一角であるこの地に碑が建立されたのじゃ。 広報はままつ2015年12月号掲載

  1. 徳川家康、実は三方ヶ原の戦いで漏らしていなかった!? - エキサイトニュース(2/2)

徳川家康、実は三方ヶ原の戦いで漏らしていなかった!? - エキサイトニュース(2/2)

実はこの徳川家康"脱糞"事件は、明確に資料が残されていないのです。 なんと、三方ヶ原の戦いで脱糞事件があったことが記されたのは、 昭和になってから なんだとか。 自軍の 2 倍もある武田軍勢、しかも相手は野戦が得意、さらに家臣が次々と倒れていくのを目の当たりにしたら、それは 人間だれしも極限状態に追いやられてしまいます し、 このような生理現象を起こしかねません。 しかし、この"脱糞"事件は、三方ヶ原の戦いではなく、なんと別途起こった武田軍と徳川軍の戦である 一言坂の前哨戦(ひとことさかのぜんしょうせん) のこととされているんです。 ③一言坂の前哨戦の"脱糞"話?

「三方ヶ原の戦い」とは。年号や場所、兵力など概要を簡単に紹介 「三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)」は1573年1月25日に、現在の静岡県にあたる遠江国敷知郡三方ヶ原で起こった、徳川家康・織田信長連合軍と武田信玄軍との戦いです。 三方ヶ原は東西に10km、南北に15kmの広さがある扇状地が隆起した洪積台地で、3つの村の入会地だったことに由来して地名がつけられました。家康の居城である浜松城は、三方ヶ原の東南端にあります。 戦いに参加した兵力は、諸説あるものの徳川家康軍が織田信長からの援軍を加えて、1万~2万8000。武田信玄軍が2万7000~4万3000ほどといわれています。 徳川家康は戦国最強と名高い「甲斐の虎」武田信玄を相手に野戦を挑み、多くの有能な家臣を失い、自身も討ち死に寸前に追い込まれるなど手痛い敗北を喫しました。 敗走中の家康が恐怖のあまり馬上で脱糞し、それを家臣に指摘された際に「これは味噌だ」と言ったという逸話や、敗戦してしかめ面をしている己の姿を自戒を込めて描かせた「徳川家康三方ヶ原戦役画像」などが有名です。 「三方ヶ原の戦い」の背景は?

Sitemap | xingcai138.com, 2024

[email protected]