『浪に漂う宝珠の図』が作られてから約22年後、1831(天保2)年頃に制作されたとされる葛飾北斎の『神奈川沖浪裏』。はたして北斎は「波の伊八」の作品を目にしていたのでしょうか?

東北大学って地震で吹っ飛びそうじゃない?

浪の音か? それともしんじつ、弥陀のみ声か? ドサッとこのとき、地ひびきたてて、源太夫が松の上から落ちてきた。われしらず走り寄って、 「聞きましたか、いまのみ声を!」 左近丞はその半身をかかえあげた。熱がひどい。源太夫の身体は燃えそうだった。 自分を抱いている者がだれなのか、すでに源太夫には認識できないらしい。うつろな視線を、 宙にただよわせて、かすかに、 「あみだぶつ……あみたぶつよや……」 つぶやくと、それっきり動かなくなった。 冬の夜の、寒気に凍って、源太夫が吐いた最後の息は、くちびるからひとすじ咲き出でた 白い蓮華の花のように、左近丞の目には見えたのである。 「白い蓮」は「源太夫」、この『今昔物語集』は「源大夫」だが、全て「源太夫」と表記した(^_^;) 『今昔物語集』の原話、いきなり得度・出家すると言い出したり、よくお考えになられてからの方が と止める堂守り法師に、自分を仏の弟子と言いながら止めるのはおかしいと遣り込めるなど源太夫の キャラが面白くて、魅力的なんだよね(〃'∇'〃) 実際、この源太夫のキャラを、苑子タンもふくらま せてるし、小説家は見逃さないわな←あしたのために(その2)p(・ω・*q)ヾ(-_-;)誰かを指してる? でも、『今昔物語集』の原話には疑問も感じるわな(@_@;) 悪人なのにこんなに簡単に往生が出来る ものなのか、源太夫の往生を見届けるため登場させる必要があるとしても寺の住職の言動が不自然、 干飯を寺で要求するのも変で寺に寄る理由が必要だったのなら携帯食を貰う以外にもその場で何かを 食べちゃうのがフツーではないか?←あしたのために(その3)p(・ω・*q)ヾ(^。^;)もしかして伏線? 210802読んだ本【結末引用ネタバレ】:けふもよむべし あすもよむべし:SSブログ. ところが、流石、苑子タンは寺に寄る場面をカットし、寺の住職を登場させない代りに左近丞と老僧 を登場させることで解決してみせたヤッタネ!! (v゚ー゚)ハ(゚▽゚v)ィェーィ♪ 源太夫に気付きをもたらした老僧の 一喝、ソレを踏まえて源太夫の往生を可能にした左近丞v( ̄∇ ̄)ニヤッ ちなみに、上記ラストシーンに ついては、苑子タンは『西国巡拝記』(中公文庫, 1980)で「ご利生ばなしに疑問」と明言してたから (⇒ )、然もありなん、だわな(^_^;) 「遺言」(⇒ )も関係あるかも(@_@;) 冒頭で「冬」に設定するのはラストシーンのための布石だが、同時に源太夫往生説話を知る読み手に 蓮は夏に咲くのに「冬」とすることで口から蓮が咲く往生の奇蹟性を高める狙いかと予想させといて 裏をかくためだったり(^_^;) 小説巧者の苑子タンは、それぐらいやりかねんオホホホ!!

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豪快にうねる波、繊細で細やかな海の描写。この画像をひと目見れば、誰でも葛飾北斎の傑作『神奈川沖浪裏』を思い起こすはず。 葛飾北斎『神奈川沖浪裏』メトロポリタン美術館 波に浮かぶ玉を富士山に置き換えれば、まさにそっくりです。 これ、実は行元寺(ぎょうがんじ。千葉県いすみ市)の欄間(らんま)の一部。木彫りでこれだけの迫力や微細なニュアンスを表現したのは、武志伊八郎信由(たけし いはちろう のぶよし)。別名「波の伊八」と呼ばれた彫工(彫刻師)です。作品名は『浪に漂う宝珠(ほうじゅ。ほうしゅ、とも)の図』。宝珠とは、あらゆる願いをかなえてくれる宝の玉のこと。 縁起のいいものが彫ってあるんだな 「やはり北斎は、それほどの影響力を持っていたのだな」と思った人も多いことでしょう。でも、違います! 伊八がこの作品を彫ったのは、"浪裏"が描かれる20年以上前のことなのです! 「波の伊八」とは何者なのか? 「波の伊八」と北斎の関係は? 東北大学って地震で吹っ飛びそうじゃない?. 「波の伊八」とは? 「波の伊八」は1752(宝暦2)年(1751年と記す資料も)、現在の千葉県鴨川市で生まれました。この「波の伊八」は初代。以後、5代まで彫工の武志伊八郎は続きますが、5代目が1954(昭和29)年に亡くなり、途絶えました。その中でも、初代の技術力、芸術性の高さが抜きんでているとされます(ここでは「波の伊八」「伊八」はすべて初代のこと)。 伊八が生まれたのは、代々、地元で名主を務める家柄で、平安時代まで家系をたどることができる一族だったという説もあります。幼い頃から手先が器用だった伊八は、彫刻師島村流の島村丈右衛門貞亮(さだすけ)の弟子となり、腕を磨きました。島村流は、日光東照宮の「眠り猫」などで知られる江戸時代初期の名工、左甚五郎の流れをくむ彫工界のエリート集団です。 すごいところに弟子入りしてる! 伊八が初めて作品を手がけたのは20歳のとき。生まれ故郷の近くの鏡忍寺(きょうにんじ。鴨川市)祖師堂の蟇股(かえるまた)です。蟇股とは、社寺建築で重さを支えるため梁(はり)の上に置かれるもので、カエルが股を開いたような形をしていることから、こう呼ばれます。 その後1824(文政7)年、73歳で亡くなるまで、千葉県を中心に50以上の社寺に作品の数々を残した伊八。現代アートのような龍、表情豊かな人物など、その作風は実に多彩ですが、その中でも代表作のひとつとされるのが、1809(文化6)年、58歳のときの作品『浪に漂う宝珠の図』なのです。鴨川の海岸で波の研究に没頭したといわれる伊八は、波をモチーフにした独特のスタイルを確立し、いつしか「波の伊八」とまわりから呼ばれるようになったのでした。 葛飾北斎と「波の伊八」の関係は?

伊八会 (伊八作品すべての画像提供:伊八会/撮影:小田嶋信行) 主な参考文献 『名工波の伊八、そして北斎─伊八五代の生涯─』(片岡栄 文芸社) 『波の伊八』(長谷川治一 ロング出版) 『図説 長生・夷隅の歴史』(郷土出版社)

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