ランナーなしで敬遠か"。そして9回、2死走者なしから山口が再び三塁打を放ち、松井の5打席目。初球、ボール。2球目、ボール……結局、投じられた20球に一度もバットを振ることなく、松井は一塁に歩くしかなかった。 ここで、5万5000人が発散した不満が決壊する。松井のホームランを見に来たのに、勝負さえしないとは……というわけだ。心ない一人からあっという間に広がった「帰れ! 帰れ!」の怒号。それに酔った三塁側アルプス、そしてレフトスタンドから、物が投げ入れられる。青いメガホン、飲み物のパック、大ぶりのラジカセ、やがて殺伐とした中で中断。河野は振り返る。 「20球は全部真っすぐです。下手に変化球を投げて引っかかったら、ストライクゾーンに行きかねませんから。とにかく、自分から見てホームベースより右に投げることしか考えていません。オーラを感じるどころじゃないですよ、松井くんを見ていませんもん。たぶん怒っていただろうし(笑)。ただ確か3打席までは、ストライクが入らない演技をしていましたから、公式記録は敬遠じゃないと思いますよ。それが4打席目になると、さすがに完全にばれている(笑)。ネット裏のおっちゃんからは物騒なヤジがびんびん飛んできますし、"あかん、外すのなら潔く外そう"と」

「勝ちたいから勝負しなかった」 松井秀喜を敬遠した河野投手に悔いなし - スポーツナビ

5 第74回全国高校野球選手権大会 アサヒグラフ 92年9・5 第74回全国高校野球選手権大会 関連項目 宮崎一彰 (ベンチ入り)

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内容(「BOOK」データベースより) 「甲子園なんてこなければよかった」―。球史に刻まれた一戦、1992年夏、星稜vs明徳義塾。松井との勝負を避けた明徳は非難を受け、試合をきっかけに両校ナインには大きな葛藤が生まれた。あれから15年、自らの人生を歩みだした監督・元球児たちが語る、封印された記憶。高校野球の聖地で、彼らは何を思い、何が行われたのか。球児たちの軌跡を丹念に追ったノンフィクション。 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より) 中村/計 1973(昭和48)年、千葉県船橋市生れ。同志社大学法学部卒。スポーツ新聞記者を経てフリーライターに。スポーツをはじめとするノンフィクションをメーンに活躍する。『甲子園が割れた日』でミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。『雪合戦マガジン』の編集長も務める(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

松井秀喜への5打席連続敬遠はあり? 151人の監督が出した答えは...【甲子園】 | ハフポスト

'92年夏、超高校級スラッガーを育て、日本一を狙って甲子園に乗り込んだ 星稜・山下監督。だが、明徳義塾の徹底した敬遠策で、松井のバットは封じられ、大望は叶わなかった。 無念さを抱えながらも、18年間、沈黙してきた闘将が、重い口を開き、初めて"痛恨の一日"を振り返った。 「このゲームだけは、スコア見たくないねえ。敬遠と(投げ込まれた)メガホンと、それしか頭にないな、試合の印象はね」 目の前に差し出されたスコアブックに一瞬視線を落とし、星稜高校の山下智茂総監督は唸るようにそう言った。 筆者は31年前に星稜高校を卒業して以来、母校が甲子園で戦った40試合全てをスコアブックにつけている。いつもは空白になっている備考欄に記された「校歌中、帰れコール!!

『勝利優先主義』ブレない馬淵監督こそが明徳義塾の強さ! ~甲子園5打席連続敬遠の続き By Doraemon - Potaru(ぽたる)

このページの名前に関して「 松井秀喜5打席連続敬遠 」への 改名 が提案されています。 議論は このページのノート を参照してください。 このタグは2008年8月に貼付されました。 松井秀喜5打席連続敬遠事件 (まついひできごだせきれんぞくけいえんじけん)とは、 1992年 8月16日 の 第74回全国高等学校野球選手権大会 2回戦の 明徳義塾 ( 高知 )対 星稜 ( 石川 )戦において、明徳義塾高校が、星稜高校の4番打者・ 松井秀喜 の5打席全てに 故意四球 を与えるという前代未聞の作戦を敢行、この試合で松井は一度もバットを振らせてもらえないまま星稜が敗退した事件である。 目次 1 概要 2 松井の五連続敬遠内訳 3 試合結果 4 試合後の当事者のコメント 5 試合関係者・野球選手等のコメント 6 その後 6. 1 この試合後の明徳義塾 6. 2 大会終了後 7 関連書籍 8 関連項目 概要 この試合で明徳義塾は、星稜の4番打者・松井秀喜に対して「全打席敬遠」作戦をとり、明徳義塾の投手・河野和洋(選手登録は外野手で背番号8)は、松井に5打席全て ストライクゾーン から大きく外れるボール球を投げ、四球を与えた。公式記録は、捕手が初めから立った状態で与えた四球ではなかったため、「故意四球」ではなく「 四球 」となっている。 松井が最初の打席は1回表、二死から3番の山口が三塁打で出塁し、星稜の先制点のチャンスで迎えた。しかし松井は四球を与えられ、一塁へ歩かされた。 その後も3回表、5回表と松井が打席に入る度に、明徳義塾はことごとく勝負を避け続けた。3回表の打席から河野が1球投げるごとに歓声がどよめきに変わり始め、5回表の打席では完全にどよめきに変わった。5回表の打席で松井が四球を与えられ一塁へ歩く際に、松井は河野に対して何かを言うべく口を動かしていたが、何を言っていたのかは定かではない。 3-2と明徳義塾が1点リードの7回表、松井の第4打席では二死無走者から意図的な四球を与える。星稜の応援席からは「勝負! 「勝ちたいから勝負しなかった」 松井秀喜を敬遠した河野投手に悔いなし - スポーツナビ. 、勝負!

お互いこの日のために毎日苦しい練習を積んで来たのだから、その力を思い切りぶつけて欲しかっただけに大変遺憾。河野君も力のある投手なのだから、走者のいない場面では勝負してほしかった。勝とうとする気持ちだけが余りにも度が過ぎている」と発言した。また、大会閉会式の際、牧野は大会講評にて、印象に残った試合として星稜-明徳義塾戦を挙げたが、松井に対する敬遠策及びその後の騒動に関しては一切触れなかった。 当日放送された テレビ朝日 の 熱闘甲子園 では、グラウンドに物を投げ込んだり明徳義塾の校歌斉唱の際に「帰れ!!

夢の甲子園、5連続敬遠で幕 1992年、高校3年夏の全国大会で「事件」があった。最後の甲子園、優勝を目指した大会に、まさか「5連続敬遠」という落とし穴が待ち構えていようとは。 2回戦の明徳義塾戦。馬淵史郎監督の徹底した敬遠策にあい、松井は最後までバットを振らせてもらえなかった。1点を争う好ゲームだっただけに、相手も大会を代表する強打者とは勝負しにくかったろう。だが、それを承知した上でなお「勝負しろ」と怒鳴るファンは多かった。5打席目の敬遠の後、グラウンドにメガホンなどが投げ込まれ、場内は一時騒然とした。星稜は2-3で敗れた。 松井は5打席すべて、ミットに収まる瞬間まで球筋を見届けた。ボールとわかっていても目は切らさず、相手投手をにらみ、遠くへ逃げる球をにらんだ。5度目の後、自軍ベンチに向かってバットを軽く放り投げたのが精いっぱいの感情表現。試合後のあいさつの際に帽子を取って下を向き、相手の顔を見ないようにしたまま「回れ右」をしたのが、せめてもの意趣返しだった。 繰り言は言わないと決めていたようで、報道陣の質問にも慎重に言葉を選んで話した。 「敬遠は相手のやり方だと思う」 「投手にも、特に言いたいことはない」 「でも、負けた気は…しない」 甲子園大会で、今もなお語り継がれる5敬遠。高校生らしからぬ落ち着いた振る舞いで、なお一層存在感を高めた。

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